タイを訪れる人の多くが知るようになる名前ジム・トンプソン。
衰退の一途をたどっていたタイのシルク産業を、西洋の美的感覚と様々なアイデアを融合させて復興させ、自身のブランドの成功は勿論、タイシルク自体を一大産業に育て上げた功績から「タイシルク王」の異名も持つアメリカ人。
失踪したまま行方知れずというミステリーも加わり、一層人々の関心を引く人物ですが、タイでのビジネスに奔走し、成功した外国人という目線で、タイでの仕事やマネージメントに従事する上で何か参考にできないか、彼の足跡を辿ってみたいと思います。
<ジム・トンプソン略歴>
1906年 米国デラウェア州生まれ
1928年(22歳) プリンストン大学卒業、6m級セ-リングで五輪米国代表
1931年(25歳) ニューヨークで建築家としてスタート
1940年(34歳) 軍に二等兵として志願
1942年(36歳) CIAの前身であるOSS(戦略情報局)に転属、海外赴任のちに欧州戦線従軍
1945年(39歳) OSSのタイパラシュート降下部隊員として待機、終戦後バンコク入り
1946年(40歳) オリエンタルホテル再建に参画
1948年(42歳) タイシルク商会立ち上げ
1951年(45歳) ジムトンプソンシルクが採用された『王様と私』の興行大成功で注文殺到
1959年(53歳) ジムトンプソンハウス完成
1967年(61歳) 失踪
多彩な能力と華やかな経歴に驚かされ、また、非常に精力的で、生まれつきの超人だったようにも感じられますが、詳しく見ると、挫折知らずというわけでもなかったようです。
プリンストン大学卒業後に進学したペンシルベニア大学では微積分の単位を落として学位を得られなかったりニューヨーク建築局の資格試験にも失敗したりしたのはご愛嬌としても、アメリカに残していた妻を終戦後迎えに行った際には同行を断られ離婚し、一人バンコクに戻ることになったあたりは同情したくもなります。
単身ゆえ仕事に集中しやすかった、あるいは傷心を忘れるために仕事に邁進したという面もあったかもしれませんが、オリエンタルホテル再建では共同出資者と衝突して手を引く事にもなりました。きっとジムもチャオプラヤー川やセンセープ運河等でのたそがれに物思いに耽たこともあったのではないでしょうか。
しかし、そんな時、ジムは友人とタイ東北部国境地帯の旅行に度々出たり、付き合いのあったアメリカ政府関係者と情報交換をしたりする中で、タイシルクと運命的な出会いを果たし、新たな道に突き進むのでした。
ジムがタイのシルク事業で成功したのは、ジムの優れた美的・色彩感覚のほかに、
① 生産の合理化
② 管理の徹底
③ 営業戦略
④ タイシルクへの熱意とタイ国・タイの人々への貢献意欲
等が功を奏したと見られています。
①~③については簡単に真似できなくても、タイで働く私たちは、④について、今自分たちがどれだけのものを持てているのか振り返って、ジムを手本にすることができるかもしれません。
常々、ジムは「タイを向上させるために何か積極的な貢献をしたい」と口にし、
「自分が何をやるにせよ、それは全てタイの人々にとって実際に利益となるものでなければならない。それはタイの人々の持つ技能から生まれてくるものである以上、その利益は全部とは言わぬにせよ、大部分をその国の人々に還元しなければならない」
と考えるに至っていたそうです。
そういった言葉が真実で想いも確かということは、人をよく観察していてうわべだけの言動には簡単になびかないタイの人々にも伝わったのでしょう。ジムは従業員や関係先からも非常に慕われていたそうです。それも、簡単な挨拶を除いては、基本的に英語を貫き通してタイ語で会話をしなかったにもかかわらず、です。
日本から来ていると、どうしても日本の基準で物事を眺めたり、駐在員の場合は日本本社の意向に敏感になったりしますが、あくまでここが外国であり、私たちが外国企業として、外国人就労者として受け入れてもらっているということを忘れず、タイ国やタイの人々の良さに目を向け、日々の業務にあたっていきたいものです。
タイでの採用についてお困りごとがございましたら、ぜひパーソネルコンサルタントにご相談ください。担当営業が丁寧にお悩みをお伺いいたします。