昔、勤務時間中にタイ人の若いスタッフが突然声を上げて泣き出したことがあります。「どうしたの?」と尋ねると、「彼氏が浮気している」と。「どうして分かったの?」と訊いたら、「彼のメールを覗いていたら、証拠が見つかった」。「どうしてメールを見ることができたの?」の問いには「いくつかパスワードを試したら当たった」と言いながら、業務用PCの画面に映る浮気相手とのやり取りを示して彼が誰と何をしたかを赤裸々に説明し始め……。ひとまず彼女の気持ちが落ち着くことを優先させながらも、日本とタイの公私の区別に対する感覚の違いを思い知った場面でした。(そんな彼女も、今や某社で「ピー」と呼ばれながらバリバリとチームを率いています。浮気調査にも長けていましたが、仕事でも優れた集中力で成果を挙げてくれたものです。)
さて、「24時間タタカエマスカ」※1が新語・流行語大賞の流行語部門銅賞に選ばれたのが、元号が平成に変わった1989年。その前年に発売された栄養ドリンクの企業戦士をイメージしたキャッチコピーだったところに昭和の残り香を感じます。平成に入ると、その反動か「ワークライフバランス」が注目されるようになり、令和の近年では「ライフ」主軸の概念も提唱されるようになっています。さはさりながら、海外出先となると、昨今の国際競争の激しさも加わり、24時間かどうかはさておき、365日に近い状況で戦っている方を結構お見受けします。
競合がある限り、あるいは本社から見た場合の予算配分の関係で、常に理想と現実の間に立つことになるのかもしれませんが、ご自身のためにも、部下の管理のためにも、やはり勤労者である以前に、一人一人が「ライフ」を抱えた「人」であるということは忘れてはいけないような気がします。
米国の精神科医Holmesらによって1967年に発表された「社会的再適応評価尺度」(ライフイベント法)※2は、下表のように、ライフイベントに得点をつけて、単体の事柄や重複した場合の合計のストレスの大小を見るスケールです。半世紀以上経過し、国を越えた場合には社会・文化背景の違いからそのままの適用が適切とは限らないこともありますが、それでも今日まで世界各国でストレス測定法として広く用いられています。日本では、日本人を対象にした後続研究でできた指標※3もあるものの、厚生労働省をはじめとする多くの行政機関でもいまだにHolmesらの研究成果はよく引用されています※4。
件のタイスタッフのような状況が起きたとき、勤務時間中にプライベートを持ち込んだこと、それに業務用PCを用いたことなど、日本人のビジネス感覚的には注意ポイントだったのかもしれません。しかし、その時の彼女が到底仕事に集中できる状態ではなかったことは明らかで小一時間ほど話を聞いて寄り添ったところ、あとは比較的落ち着いてまた仕事に向き合っていたように記憶しています。彼女にとっては、長年付き合った彼であり、結婚も考えていたくらいなので、当時まだ結婚していなかったにせよ、衝撃は、「2.離婚」や「3.夫婦別居生活」に相当するものだったのでしょう。また、それまでもそのスタッフには懐かれ、特にトラブルなくやっていましたが、その出来事を経て、更に信頼を寄せてくれるようになった気がします。
日本人の場合、元々公私の区別が厳格だったり、少なくとも仕事中は仕事しているふりに徹したりしますが、表面上どう見えているにせよ、人であることには変わりなく、やはりプライベートで何か起きたときには、それがパートナーとの関係であったり、家族の健康問題であったりしても、完全に遮断できるものではないのではないでしょうか? タイスタッフがよく「家族が病院に行くので付き添います」と休んだりしますが、あれは、その時間業務から外れるにせよ、家族内での関係維持や不安の除去等といった観点から、「ライフ」に資するだけでなく、「ワーク」面を見ても、効率的にも思えます。そう考えると、仕事が忙しければ忙しいほど、「ライフ」をないがしろにするようなことは避けた方がいいのかもしれません。
※1 https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00006
※2 https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/0022399967900104?via%3Dihub
※3 1993年、働く人のメンタルヘルスに長年携わった精神科医・産業医の夏目誠らが日本人勤労者を対象とするストレス得点表を発表。点数には違いもあるが、「配偶者の死」がもたらすストレスの度合いが最も高い点や離婚・別居といった配偶者との関係に関連する項目の点数が高い点に違いはない。
https://www.niph.go.jp/journal/data/42-3/199342030005.pdf
※4 新しいところでは、令和6年度厚生労働白書P.6脚注1 https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/23/dl/1-01.pdf